企業の寿命は30年とも言われます。大正、昭和、平成-時代の流れの中で数え切れない苦節もありましたが、それを乗り越え現在まで生き抜いてきた弊社は、100年を超える時を過ごして参りました。伝統を継承するその一方で、常に未来に向けて革新することを目指しています。これからも、守り続けることと変わり続けることのどちらも大切にしながら、次の新たな100年を切り開いて参ります。
100年を超える伝統と革新の始まりには、二人の創業者の姿がありました。 1886(明治19)年、弊社の前身、石濱組の創業者である石濱太郎平はこの世に生を受けました。淡路島で宮大工として腕をふるっていた太郎平に転機が訪れます。軍の兵舎を大阪へ解体移築する工事を請け負い、大阪へ進出したのが弊社の創業年1913年となります。 一方もう一人の創業者田中幸三郎は、丹波篠山に生まれ、大阪公立大学工学部の前身である大阪市立都島工業専門学校にて建築を学び、井上組で建築技術者としての研鑽を積みます。その間、石濱太郎平の娘である操と田中幸三郎は結婚。1937(昭和12)年には独立を果たし、田中工務店を起業することとなります。 その後、戦時下において、石濱組と田中工務店は経営統合を行い、ますます大阪に根ざした総合建設会社として発展の道をたどるのです。 創業から100有余年、弊社の歩んだ軌跡をご紹介いたします。
石濱組と田中工務店が創業し、経営統合をしていくこの時代には、戦前から、逓信省(現在の総務省)の工事を多く手がけていました。大戦の時局は深刻さを増し、戦時には軍の工事に従事することになります。空襲により社屋を焼失するも営業を続け、終戦後は荒廃した日本の復興に奔走するのです。田中建設としての初仕事である太陽シネマも復興の証です。
太陽シネマ、明星学園運動場拡張
1913(大正 2)年 | 石濱太郎平が東区内久宝寺町(現中央区法円坂)にて石濱組を創業 |
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1923(大正12)年 | 大阪城大手門南控え柱の根元補強のための根継工事を行う。蟻継と殺継を組み合わせた継手は、外観からは継ぎ方がわからず、近年まで大阪城の謎の一つとされていた |
1926(大正15)年 | 石濱太郎平が考案した鉄筋コンクリート製スリーパー(枕木)が実用新案登録され、鉄道省(運輸省、日本国有鉄道、国土交通省の前身)でも正式採用された |
1937(昭和12)年 | 田中幸三郎が天王寺区清堀町(現天王寺区空清町)にて田中工務店を創業 |
1938(昭和13)年 | 田中工務店が大阪建設業協会の前身である大阪土木建築業組合に加入 |
1942(昭和17)年 | 企業整備令により、石濱組と田中工務店が経営統合し石濱組が発足、石濱太郎平が社長に就任 |
1944(昭和19)年 | 資本金195,000円で石濱組を株式会社として設立登記 |
1945(昭和20)年 | 石濱組、天堀組及び木戸口工務店が経営統合し、大洋建設株式会社を設立 天堀由太郎が二代目社長に就任 本社及び清堀倉庫が6月7日の第3回大阪大空襲により焼失し、臨時に設置した堺営業所にて営業を継続 終戦を迎え、8月末に一時営業を停止する 12月28日天王寺区北河堀町に本社を移転 |
1946(昭和21)年 | 年初より営業を再開し、新社屋を建築する |
1949(昭和24)年 | 天堀組、木戸口工務店と再び会社分割し、田中建設株式会社を設立 資本金を1,300,000円に増資 田中幸三郎が三代目社長に就任 建設業法が公布 |
1950年代前半から、大阪郵政局、近畿電気通信局の工事を多く受注し、各地の郵便局や電報電話局を建設します。この間、石濱組の創業者である、初代社長石濱太郎平が逝去します。1955年頃から日本は高度経済成長期が始まり、急激な経済成長と工業化に伴って、仕事を求めて大量の人口が都市部に集中していきます。住宅不足は次第に顕著となり、弊社も共同住宅の建設が少しずつ増加し、日本住宅公団、大阪府、大阪市、大阪府住宅協会などの公営住宅を手がけます。
大阪府営諏訪ノ森住宅、大阪郵政局我孫子宿舎
1950(昭和25)年 | 建築基準法が公布 |
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1951(昭和26)年 | 石濱組の創業者、初代社長石濱太郎平が死去 |
1952(昭和27)年 | 資本金を 2,000,000円に増資 |
1954(昭和29)年 | 資本金を 5,000,000円に増資 |
1955(昭和30)年 | 資本金を 7,000,000円に増資 |
1956(昭和31)年 | 資本金を10,000,000円に増資 |
1958(昭和33)年 | 決算期を12月31日に変更 |
1959(昭和34)年 | 資本金を20,000,000円に増資 |
都市部への人口集中に伴い、無秩序な郊外への拡大も続き、都市計画の面からも放置できなくなります。大阪府は100万戸を超える住宅を建設する方針を決定し、重点政策として1,160ヘクタールに及ぶ日本初の大規模なニュータウン開発である千里ニュータウンの工事がスタートします。弊社が手がけた大阪府住宅協会の佐竹台住宅は、千里ニュータウン最初の工事となります。民間工事でも、後に川崎重工業と経営統合する汽車製造から多くの工事を受注します。 また、ブラザーミシン販売の工事も受注が増えていき、大阪の営業所は弊社が一手に請け負うことになっていきます。工事量の拡大に伴い、大きな資材置場の確保が必要となり、八尾市に八尾資材倉庫を建設します。
大阪府住宅協会佐竹台住宅・泉北住宅、日本住宅公団富雄団地・中登美団地・新千里東町団地
1961(昭和36)年 | 日本初の大規模ニュータウン開発である千里ニュータウンが着工 |
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1962(昭和37)年 | 千里ニュータウン最初の工事である佐竹台住宅を弊社が施工する 千里ニュータウンのまちびらきが行われる 資本金を 30,000,000円に増資 |
1964(昭和39)年 | 八尾市老原に資材倉庫を設立 資本金を 50,000,000円に増資 |
1966(昭和41)年 | 大阪最大のニュータウンである泉北ニュータウンが起工。弊社も多くの工事を手がける。 |
1969(昭和44)年 | 資本金を 60,000,000円に増資 |
1973年、1978年の二度のオイルショックにより、不況は長引き、公共事業費をはじめ財政支出の削減が続き、厳しい経営環境を強いられる時代となります。その中で良好な住宅環境の整備は進み、弊社はますます多くの住宅を建設します。1970年代後半には、学校の工事も増え、住宅の受注も続きます。民間工事では、川崎重工業、三井造船からの受注が増えていきます。
日本住宅公団男山団地・百舌鳥本町団地・中振団地、大阪市立巽中学校・工芸高校、箕面電報電話局、大阪市立大学附属病院リニアック棟
1971(昭和46)年 | 資本金を 80,000,000円に増資 |
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1973(昭和48)年 | 資本金を100,000,000円に増資 |
1980年代前半は、第2次オイルショック後の不況から回復しつつある中で、財政健全化のための抑制的運用により建設投資額は低迷し、激しい受注競争が展開されます。その中で、1970年代から続く15歳未満人口の増加に伴い、学校の建設が増加し、住宅の受注も順調に推移していきます。1980年代後半には、民間設備投資が回復し、民間工事で大型物件の受注が続きます。田中宏が四代目社長に就任した翌年、田中工務店を創業した三代目社長田中幸三郎が逝去します。
大阪市立松虫中学校・天王寺中学校・苗代小学校、住宅都市整備公団平城右京団地・リバーサイドさぎす、トーホー工業樟葉工場増築、ブラザーミシン販売トロア神戸ビル
1980(昭和55)年 | 田中宏が四代目社長に就任 |
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1981(昭和56)年 | 田中工務店創業者、三代目社長田中幸三郎が死去 |
バブル景気がはじけ、建設業界にも再び不況の嵐がやってきます。民間設備投資を中心に、建設需要は急速に減退していきます。苦しい時代ではありましたが努力を続け、住宅、学校などの公共工事を中心に受注を確保していきます。
住宅都市整備公団アルビス伊丹千僧・サンヴァリエ針中野、近畿郵政局瑞光宿舎、大阪府立天王寺高等学校・桃谷高等学校、大阪市立阪南小学校・晴明丘小学校・阿倍野小学校・阪南中学校・金塚小学校、大阪府営古川橋住宅、トーホー工業八尾工場増改築、ホルベイン画材春日倉庫
1993(平成 5)年 | 田中宏が大阪府商工部知事表彰を受賞 |
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1999(平成11)年 | 田中宏が大阪府知事表彰を受賞 |
不況は長引き、厳しい時代が続きます。デフレは進行し、経済成長は停滞します。限られた工事量の中で奔走し、大型の民間工事の受注に成功します。我孫子社宅、八尾資材倉庫を閉鎖し、有効活用によって不動産事業にも進出します。
近畿中央病院RI棟改修、大阪市立長居立体駐車場、大阪府営苅田北住宅・公園南矢田住宅、大阪市営瓜破第二住宅、大阪市環境事業局東淀工場、阪神高速守口料金所、ソフトウェア・サービス本社ビル、ベッセル工業倉庫、八光自動車工業本社改修
2002(平成14)年 | 田中宏が全国建設業協会理事に就任 田中宏が大阪建設業協会副会長に就任 田中宏が大阪府経営合理化協会副会長に就任 |
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2005(平成17)年 | 田中宏が国土交通大臣表彰を受賞 田中宏が憲法記念日知事表彰を受賞 我孫子社宅跡地の活用として、グループホームを建設し不動産事業を開始 |
2007(平成19)年 | 資材のレンタル品への切り替えが進み、八尾資材倉庫を閉鎖 |
2008(平成20)年 | 田中顕三郎が五代目社長に就任 田中宏が、建設業への永年の功績により黄綬褒章を受章 田中宏が、大阪建設業協会創立100周年記念特別功労賞を受賞 |
リーマンショックが発生し、経済は大きな打撃を受けます。厳しい時代はさらに続き、公共工事は大幅に減少していきます。この頃、弊社では公共工事から民間工事へと受注比率の変化が大きく進みます。民間工事はマンションと医療施設が中心となっていきます。2011(平成23)年には東日本大震災が発生し、学校の老朽化が進む中、学校の耐震化工事が本格化します。2013(平成25)年には、創業100周年を迎え、記念事業として本社ビル建替プロジェクトに取り組み、翌年、弊社本社及び96戸の賃貸マンションとの地上10階建て複合ビルが完成します。景気の回復に従って、工事量も回復する一方、相次ぐ自然災害からの復興工事やリニア新幹線、東京オリンピック関連施設といった大型プロジェクトの着工もあって、建設単価の高騰と未曾有の人手不足が進行していきます。
和泉市立信太小学校耐震化、高石市立東羽衣小学校耐震化、柏原市立旭ヶ丘小学校耐震化、大阪市営豊里第二住宅、大阪府営枚方東牧野住宅、近畿中部防衛局千僧庁舎、八光Body Technical Center、ソフトウェア・サービス第1ビル改造、近鉄タクシー南大阪営業所、アドバンス神戸ラフィナート、エスライズ大阪ドームレジデンス
2013(平成25)年 | 大正2年の創業より100周年を迎える |
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2014(平成26)年 | 昭和19年の設立より70周年を迎える 本社ビル建替工事が完成し、新社屋での営業を開始 |
2019年末に確認されたCOVID-19が感染拡大し、世界は大きな混乱に陥ります。日本でも、東京オリンピックが1年延期となり、緊急事態宣言が発出され、生活やビジネスの上で大きな制約が課されることとなりました。新しい生活様式が登場し、感染拡大の終息後も、リモートの活用やキャッシュレス決済が急速に普及しました。分断の時代に、物価高騰と人手不足が深刻化し、生成AIの進化などもあいまって、大きな変化が生じました。
ファステート大正駅前トロフィ、HOTELS-PRESSOWest、ソルレヴェンテ江坂広芝町、ヴェッセル工業事務所棟、関目東小学校長寿命化、エスリード江坂セントラム
2023(令和3)年 | 大正2年の創業より110周年を迎える |
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2024(令和4)年 | 昭和19年の設立より80周年を迎える |