創業大正2年  おかげさまで建築ひとすじ9 5年
田中建設株式会社 

 

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       天王寺歴史散歩
当社のある天王寺の歴史は古く、四天王寺を初め、多くの史跡が存在しています。わが町天王寺の歴史の跡をちょっとのぞいて見ませんか。見慣れたはずの景色が新たな風景となってあなたの目に飛び込んでくるかもしれませんよ。

四天王寺
四天王寺舞楽とどやどや
庚申堂
竹本義大夫墓所
河堀稲生神社
天王寺公園
旧黒田藩蔵屋敷長屋門
慶沢園
天王寺美術館
茶臼山古墳
堀越神社
一心寺
安居神社
四天王寺
   「日本書記」によると、四天王寺は587年(用明天皇2年)蘇我馬子とともに物部守屋を倒そうとした聖徳太子が、その戦勝を祈願し、討滅後の寺塔の建立 を誓い、戦勝後、まず玉造の東の岸辺(大阪城付近一帯)に建てられ、ついで593年(推古天皇元年)、当時難波の荒陵(アラハカ)とよばれていた現在の地 に建立されたといわれています。 

 初め、敬田院・療病院・施薬院・悲田院の四院を備えた大寺院でありましたが、現在の寺域は四天王寺縁起にも記されているように、東西約880m、南北約660mの敬田院が残っているだけです。 

 伽藍配置は南に面し、南に中門、そして北へ塔・金堂・構堂を一直線上に並らべ、中門の西側から北の構堂へ連続した回廊をもって、塔と金堂とを囲む百済様式で、四天王寺式とよばれています。  同じく聖徳太子の建立といわれている、奈良の若草伽藍(法隆寺の前身伽藍)とともに飛鳥時代の曲型的な様式で、法隆寺式より古い形式のものであります。 

  四天王寺は、正しくは四天王寺護国寺と言い、国家鎮護の寺として、国家の尊祟と保護を受けています。 平安時代になり、法華教信仰を説いて貴族の尊信を得たが、浄土教信仰のひろまりにともなって、四天王寺もその対象となりました。 浄土教信仰では、春秋の中日に西方の空を見る時、浄土の世界を仰ぎ観ずることができるという日想観を説いていますが、上町台地の四天王寺西門は夕陽ヶ丘と ともに夕陽を仰ぎみる最高の場所であり、西門は極楽浄土にいたる東門だという信仰まで生まれました。 

 又西門の石の鳥居(重文で、四天王寺最古の建造物)は1294年、四天王寺の別当忍性が建立したものであり、その扁額には「釈迦如来転法輪所、当極楽土東門中心」とあるのも、上記のことを示すものとして興味深いです。

   堂塔伽藍は、たびたびの落雷、兵火のために再建、焼失をくりかえしましたが、昭和20年の戦災で、1623年(元和9年)の再建である西通用門・五智光 院・六時堂・天三大頭堂(以上いずれも重文)を残して大部分が焼失しました。戦後、伽藍の復興が進められ、鉄筋コンクリート製の新伽藍として昭和38年に ほぼ再興されました。

四天王寺舞楽とどやどや
 4月22日は聖徳太子の命日と伝えられ、その日には聖徳太子の霊を祀る聖霊会法要が六時礼讃堂を中心に行われますが、その時、舞楽が石舞台で奉納されます。 

 この舞楽は、東・林・薗・岡の四氏が秦河勝(ハタノカワカツ)を祖と仰いで秦姓を名乗って、この地に居住し、霊前に奏してきたという伝統をもっています。現在は無形文化財に指定されています。

  又、この舞楽を奏する人々を天王寺伶人といい、その人達が居住していたことから伶人町の町名が生まれました。

   どやどやは、元旦から14日にかけて五穀豊穣と天下泰平の祈願が礼讃堂で行なわれますが、最後の14日には裸で紅白のはちまきとまわしをしめた近在の青 年が、東西の二組に分かれ、冷水をあびながらもみあって、六時礼讃堂で牛王宝印(ゴオウホウイン)という守り札を奪いあうという行事であります。そして、 この守り札を田畑にたてると、豊作になると伝えられています。

庚申堂
 弊社より、天王寺駅へ少し寄った市バス車庫と天王寺社会保険事務所の間の道路(一方通行)を北へ下って行った四ツ辻の西北の角にあります。

  庚申堂は正善院が正式な名称で、天台宗に属していて、本尊は背面金剛童子(セイメンコンゴウドウジ)です。

   八世紀の初め、国内に疫病が流行した時、当時四天王寺監寺釈の坊に民部僧都豪範(ミンブソウズゴウハン)という貴い僧がいて、現在の所に庵をつくり、仏 天の加護を祈願し、夢に青面金剛の霊像を得て、堂に安置したところ、疫病がおさまった。この霊像を得た日が正月七日庚申の刻であって、以来豪範の感じた青 面金剛童子が祀られています。

  金剛童子に祈れば必らず一願はかなえられ、特にこれを申の刻に行うと身も心も清浄となり、又百味の飲食を供えて本尊を念ずると、この世の罪科は速やかになくなり、宿願が成就するとされています。

  この庚申の日を縁日とし、「天王寺庚申まいり」が今でも盛んな人出で賑わいます。

  庚申堂のお堂は、昭和45年の日本万国博覧会の時の寺院建築を移建したものです。

  又、JR長居駅から住吉区、阿倍野区とあびこ筋に平行して「庚申街道」と言われている道路があります。

  これは、「庚申まいり」に人々が通った道路の名残りです。

竹本義大夫墓所
 庚申堂の東門を出て(道路向いに青山甘納豆の本店がある)北へ上ると国道25号線に出ます。その左側南西角に「超願寺」というお寺があります。25号線を隔てた向いが四天王寺南大門です。その境内に竹本義大夫の墓があります。

   竹本義大夫(1651〜1714)は義大夫節の創始者で、天王寺村(堀越神社付近)の農家に生まれ(戦前にはわら葺きの生家があった)、大阪で清水現兵 衛、京都で宇治加賀掾(カガノジョウ)に学んで、両者の長所をとりいれた形で、独特の義大夫節を案出して竹本義大夫と改称しました。

  1684年 大阪道頓堀戎橋南詰に竹本庵を設けて浄瑠璃人形芝居を興行し、さらに近松門左衛門を座付作者に迎えてその新作を上演して義大夫節の名を高めました。

河堀稲生神社
 弊社から東・北へ300mぐらいのところ、天王寺幼稚園・稲生公園があり、その東側に河堀稲生(コボレイナリ)神社があります。

  河堀稲生神社は聖徳太子が、四天王寺の鎮守として祀ったといわれる「四天王寺七宮」(上之宮・小儀(オウギ)・久保・河堀(コボレ)・土塔・堀越・北の各地区の神社を総称)の一つで、第32代の崇峻天皇を祭神としています。

   河堀稲生神社は、神社の記録によると、第12代 景行天皇の皇子、日本武尊(ヤマトタケル)こと小碓命(オウサノミコト)が筑紫の熊襲(クマソ・北九州地方で朝廷にそむきたびたび謀叛をおこした民族)を 征討する時、この地に来られ、夏目入穂(ナツメイリホ)の孫の逆輪井(サカワイ)を舟師として供をさせ、無事熊襲を征討し、帰路難波柏(ナニワカシワ)の 済(ワタリ)でも悪神等を誅された由縁の地で、この後、逆輪井の妻、日柿が小碓命のご息災を祈願するため、大和笠縫の斉宮に参り、倭姫命(第11代 垂仁天皇の皇女)に太玉串を授かり祀っていたところ、豊饒が続き、又皇子も病いもなく、息災であったことにより逆輪井は鍬津の西、浪花潟昼ヶ丘に神地を賜 わり、稲生の神として代々祭祀するようになりました。

  その後、四天王寺創建とともに、この昼ヶ丘に社殿を建立、崇峻天皇を祭祀し、四天王寺七宮の一宮として稲生大明神と併祀されるようになりました。

   又河堀の地名は、古くは古保礼(又は古保利)と書かれていたが、788年(延暦7年)摂津大夫和気朝臣清麿の建言により、摂津・河内両国の境に河を堀り 堤を築いて、河内川(平野川)を荒陵(茶臼山)の南へ導き西の方の海へ通すことにより、沃壌もますます広くなり、大和川の水害も除けるとし、稲生大明神に 祈願し事にかかったが、清麿の死によって完成しなかった。以後河堀と書いて「コボレ」と読むようになり、附近一帯を河堀口と言うようになりました。

  この河筋が茶臼山河底池、大堀、堀越、河堀、河堀口などの地名として残っています。  弊社の東、南河堀の交叉点を北へ下った、一つ目の信号の東西の道路(天王寺中学校の南側)がこの河筋になります。

天王寺公園
  大阪市に公園が設けられたのは、1891年(明治24年)、中之島の仮公園が初めてで、天王寺公園は第5回内国勧業博覧会の跡地につくられ、1909年 (明治42年)に開園したもので、その後、1922年(大正11年)に財閥住友家から茶臼山、及び邸宅を寄付されて、総面積は約25万uとなりました。  園内には長方形の洋式花壇・植物園・美術館・日本式庭園・動物園などもそなえた、総合公園です。
旧黒田藩蔵屋敷長屋門
 天王寺公園内の美術館の南側に旧黒田藩蔵屋敷長屋門があります。

   これは江戸時代、大阪は「天下の台所」として、全国の米や特産物が集散し、諸国の諸大名が自国の産物販売のために、大阪中之島に蔵屋敷(倉庫兼取引のた めの藩邸)をおき、その数は明治維新直後には、135もあったそうです。そのなかでも大きかったのが、筑前(現在の福岡県)黒田藩52万石の蔵屋敷で、俗 に「後藤又兵衛あかずの門」とか「源蔵門」とか呼ばれていた長屋門が美術館の南通用門として移築されました。

  江戸中期の建造物ですが、蔵屋敷の遺構が現存していないので、貴重な存在となっています。

  又、終戦後、この長屋門の改修をしたのが、弊社でありました。

慶沢園(ケイタクエン)
 長屋門を入ると、右手が慶沢園で「照代の恩恵、祖先の余沢」の意味から恵沢園と名づけられましたが、後に現在の字に改められました。

  茶臼山古墳の一部を占め、面積は57,750u、元は住友家の庭園で、現在美術館のある本邸敷地とともに、1922年(大正11年)大阪市寄贈されました。

  この庭園は1908年(明治41年):本邸宅建築12年後に作庭が始められ、10年余りの歳月をかけて完成したものです。

  純日本風の池泉回遊(チセンカイユウ)式で全国各地から名木、名石が集められ、大阪市北区網島の藤田邸、同南区瓦屋町の鴻池邸とともに、大阪三庭園の1つです。

  一時戦災で荒れましたが、今では整備され元の姿になっております。

  旧藤田邸の「薬医門」を移した北門の脇には茶室が、又、「喚魚亭(カンギョテイ)」という阿亭(アズマヤ)の跡には数奇屋造りの建物が建てられ、一般にも開園されています。

天王寺美術館
 昭和11年5月に完成した、地階と地上2階建ての鉄筋コンクリート造の日本式建築です。

  館の北半分が常設展に、南半分は現代美術の展覧会場にあてられています。付属施設として、美術研究者のための研究所があります。

  代表的な収蔵品には、中国絵画の集大成として有名な阿部孝次郎代のコレクションや、小西家伝来の尾形光琳資料があり、その他にも陶磁器・金工・漆器・彫刻・絵画・考古資料など、多くの国宝や重要文化財が寄託されています。

茶臼山古墳
 1614年(慶長19年)、大阪冬の陣に徳川家康はここに陣をかまえ、翌年の夏の陣では、大坂方の真田幸村がここから東方の庚申堂にかけて陣をはり、家康と戦った「茶臼山の戦い」は有名です。

  古代は「荒陵」とよばれていたが、茶臼山の呼び名は中世以降のことで、現在は茶臼山と呼んでいます。

  「日本書記」によると、仁徳天皇が御陵として築造させたが、その位置がよくなかったので、使われないまま荒れてしまったという。形や周濠からみると、前方後円墳ですが、被葬者は不明です。

  後円部裾の河底池は、周濠であった名残りといわれています。

堀越神社
 谷町筋を阿倍野橋北詰から約300m北(四天王寺)へ寄った西側(登り坂の途中)にあります。

  第33代推古天皇の御代に、時の摂政の聖徳太子が、叔父にあたる第32代崇峻天皇の徳を偲んで、風光明媚にして、老松の茂った茶臼山の地を選び、四天王寺建立と同時に創建されたものであります。

  古くより明治の中期まで、境内の南沿いに美しい堀があり、この堀を越えて参詣したので堀越の名がつけられたと言われています。

  昔から大阪では「堀越さんは一生に一度のねがいを聞いてくださる神さん」との言いつたえがあります。

  又、河堀稲生神社でも書きましたが、788年(延暦7年)摂津大夫 和気清麻呂の建言によって摂津・河内両国の境に河を掘って堤を築き、平野川を茶臼山の南に導き、大和川の水害を除こうとしたが、清麻呂の死によって完成しなかったが、この川筋が地名となり残っている1つであります。(茶臼山の河底池・堀越・河堀 他)

  

一心寺
 谷町筋の四天王寺交差点を西へ200m下った左側(南側)にあります。

  創建当時は四天王寺僧坊のひとつでありましたが、1185年(文治元年)、四天王寺の寺務慈鎮の招きで法然上人がこの僧坊に庵をつくり、日想観を修してから浄土宗の旧跡となりました。

  そして慶長年間に、三河の僧がここに来て1千日の念仏修法を行なったので、その一心称名をもって一心寺として再興されたといわれています。

  表門は戦前に旧大阪城の三の丸玉造口の黒門を移されたが、戦災で焼失してしまいました。

   この寺は全国的な納骨寺として有名で、全国から納められた骨で阿弥陀如来をつくるきまりになっていて、1851年(寛永4年)から始められ、10年を一 期として一骨仏をつくられてきましたが、戦災で焼失し、現在は本堂の西南にある納骨堂の東西している阿弥陀如来のうち、肌の白い二体が戦後の骨仏でありま す。  寺内に多くある墓のうち、本堂に向かいあって、5mほどの五輪塔がありますが、これが大阪随一の大五輪塔といわれるもので、大阪夏の陣で戦死した本多忠 朝の墓であります。

  酒豪で有名な忠朝が、死に臨んで、酒のために身をあやまる者を助けんと誓ったことが伝えられて「酒封じの神」として崇敬されています。 この墓のすぐ南にある大きな五輪塔には、施主平野屋彦兵衛・六右衛門とあり、江戸時代、大阪に進出した平野郷町の町人の力の大きさをみせています。

安居神社
 一心寺の向い側(北側)にあり、創建については詳らかではないが、聖徳太子が四天王寺を建立された頃であろうと伝えられています。

  祭神の「少彦名(スクナヒコナ)神」は記紀によると、大国主神と相並び共に力を合わせて、国を治め、又種々の病を治療する方法を創るなど、国中に深い恩恵をほどこされた神威あらたな神であります。

  又菅原道真公も祭神とし、祭られています。この道真公が筑紫に左遷される時、この境内にしばし安居された(憩われた)という旧い縁をもって、道真公の薨後40年を経て、942年(天慶5年)、その神霊を合祀されました。  安居神社は大丸百貨店の業祖 下村彦右衛門が1762年(享保11年)、この難波(ナニワ)の地で、開店するに当って社殿を修築し、又境内地拡張のため敷地を寄進するなど、歴代大丸店主の神社に対する信仰は極めて篤く、世間で大丸天神と言われている所以です。

  又、大阪夏の陣における眞田幸村討死の地と伝えられ、境内には石碑が建っています。  昭和20年戦災で一切の建物が焼失しましたが、大丸をはじめ、大丸取引業者の「大丸会」の奉賛寄進で、昭和26年春に社殿及び社務所が復興されました。

 

  眞田幸村討死について 

 「幸村が討死する時、天王寺の在家は火にかかり、その煙が天王寺周辺の合戦場を夜のように薄暗くしていた。徳川軍の松平忠直の率いる越前兵が、その煙の中を血刀を掲げ悪鬼のように徘徊していた。 越前の槍奉行 野本右近が幸村をつけていた。彼は馬を乗り廻しながら、眞田の馬印と鎧の上に羽織った緋縮緬の羽織を目標に、次第に幸村に近づいて行った。眞田の組子は殆ど討死し、極く少数の武士たちが幸村に従っていた。 野本右近は煙の中をすぐ幸村の背後に出た 「野本右近推参」 声をかけると、いきなり彼は背後からむんずと幸村に組んで行った。 高く馬は跳ね上った。手を幸村の脇腹に廻したまま、右近は自分の體が大きく振り切られ地上に落ちるのを感じた。 その時、新手の武士が横合から幸村に組んだ。同じ越前の家人 西尾仁左衛門だった。馬上から二つの體は一つになって地上に落ちた。西尾は上になって、重傷を負って疲れきっている幸村の首級を挙げた。 幸村の死の前後から徳川軍はひしひしと城に詰めて行った。 城は既に火を噴き出していた。 その夜、西尾仁左衛門は幸村の首級を、彼が着していた緋縮緬の羽織に包んで、茶磨山の家康の本陣へ持参した。」井上靖「眞田影武者」より  眞田幸村の討死した夜、家康の前には幾つかの幸村の首級と言われるものが持ち込まれたが、それはどれも幸村の首級でないことは明らかだったそうです。

 


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